ホーム> 法林閑話
ある障害者の死
 今年二月、私の勤めている知的障害者施設の七十歳になった男性が交通事故に遭い、脳挫傷にて緊急手術意識不明の重体となりました。原因は職員引率の元、数名の利用者と共に散歩中、点滅信号付きの横断歩道を渡ろうとし、赤信号を確認せず飛び出したのが原因でありました。このような場合職員の過失責任は大きいですが、それ以上に施設責任というものが大きく伸し掛かってくるのであります。幸い翌日には意識が戻り、なんとか施設復帰も可能と思われるほど元気になってきましたが、入院が長引くことによる内蔵全体の衰弱のため、五月末に帰らぬ人となりました。
 この人は、読み書きは全然できませんでしたが、体は丈夫で活発な動きと会話は可能な重度の知的障害を持った人でありました。「歳は」と聞けば「三才」といい、見学者などにはニコニコしながら「どこから来たん」。「僕牧場班で作業しているし、見においで」と手を引っぱって行ったりして、施設に不安を抱いて来た人も彼の接待を受けてひと安心するのであります。彼は創立当時から五十年近くを施設と共に信楽の町で過ごした人であります。
 ところで、お葬式は寮の責任においてやることになり、両親の亡きあと兄弟の方が、男兄弟五人の末っ子として大切にケアされていた人だけに、どのようにお詫びをといろいろ心を痛めていましたが、寮の事故責任というよりも、永年楽しく生活できたことに対して感謝の言葉を頂いたのであります。
 その時、生育から色々と話を聞かされた中に、彼は兵庫県西宮市出身で、当施設に来る前、二十五、六の時まで自宅近くにある関西学院大学に毎日遊びに行っていたとのことであります。夏場になると虫かごと編を持ってセミ捕りに出かける、出かけたと思うと、かごの中をいっぱいにしてすぐ帰ってくるのであります。それは大学の学生や工事に来ている人たちがセミを取っていてくれていたのであります。また、彼が学校に来ている当時、大学に通っていたという人から聞いた話では、その方は、軽音楽クラブをやっておられて、練習が始まるといつも教室に入ってきて一人聞き入っており、終わると拍手をしてくれたり、授業時間にも時々今日ツに入ってきて難しい講義を聞いていたり、昼休みになると学生食堂に行き、誰がお金を払っているのかわかりませんが、食堂のおばちゃんが「はい、これ○○さんの分」といって定食が出てきたとのことでした。
 以上のことは半世紀前の古きよき時代のことであったのか、知的障害の人が地域で受け止められ、まして大学にまで入り込んで授業を受けるなど今日では考えられないことであります。しかし、現代は、この古きよき時代に戻るようにバリアフリーといって障害者と健常者、お年寄りと若者と垣根のない社会にしようとしているのが多く露出したからであろうか、障害者矢お年寄りの人が町の中で自由に生活できることこそ、子供や健常者といわれている人にとっても住みやすい町になり地域住民もやさしくなると思います。
 今回の事故は多くのことを考え、また示唆を与えてくれたことに感謝するのであります。また、障害者が大昔より大量の神、商売繁盛の神として今日まで庶民に敬われている恵比寿さん、大黒さんさんのように、障害者の人としての純粋さが回りを柔らかいしてくれていることと、障害者やお年寄りなどを大切にする気持ちが神仏への信仰とつながっている結果と思えるのであります。

                                    (法林院 住職)
                             「平成十三年十一月 瑠璃燈より」

スマートフォンサイトへ